足摺り水族館について
今や「楽園 le paradis」の看板作家(私的)であるpanpanya先生の商業第1作です。
https://www.hakusensha.co.jp/rakuen/vol28/
(正確には、本書を発行したのは「1月と7月」という会社ですが。)
当作品はpanpanya先生が制作していた個人作品を再構成し未収録作品を追加したものです。その為、後続の楽園掲載作品とは異なる"雑多な"味わいを楽しめます。
共通点としては夢日記のような、日常と非日常が境界線をぼやかして繋がっている感覚を描いていることです。
またシンプル過ぎる人物と描き込みの濃すぎる背景、そしてポップな吹き出しの絶妙なバランスも特徴。
それでは早速各話紹介をば。
足摺り水族館
親戚から送られてきた本を読んでいると古めかしいしおりが出てきた。それは水族館のチケットで、折角なので行ってみることに。翌日、チケット裏の案内に従って進んで水族館を目指す。
表題作品にして巻頭作品の上編。既に独特で並々ならぬ世界観が立ち込めています。途中で現れるデフォルメされ過ぎた猫とリアルに描き込まれたシイラの対照がたまらない。
中編へ続きます。
完全商店街
お使いを頼まれた主人公はメモを頼りに買い出しへ。順調に用事を済ませていたが最後の品目だけがわからない。母は「商店街て買えるものばかり」と言っていたが・・・。
仕方なしに聞き込みをするも成果はなく、喫茶店で休憩していると他の客の話が耳に入った。どうやらこの世に存在するありとあらゆるものが揃う、「完全商店街」なるものがあるらしい。
そして迷いながらもついに完全商店街へたどり着いた。
ハリー・ポッターの序盤で魔法アイテムを揃える商店街があったけど、私たちの実社会になぞらえるとこんな感じになるのでしょうか。
印象に残ったのは謎の品を探す道中、"TAXI"という言葉がわからない赤ん坊を見て「言葉がわからないという点ではかわらない」と思うシーン。
我々は自分の知識の堆積をもって"知っている大人"ぶろうとしますが、所詮は"知っている内容は知っている"に過ぎないんですね、羽川翼状態ですね。
(加えれば、"知っている"内容も"間違っている"場合が多々あるのでタチ悪い)
すごろく
博士と助手がすごろくをする話。
たった4ページなのにすべて違和感。
最先端技術を発揮する為の舞台装置が古典的なすごろくというミスマッチもグッド。こういう一見無駄な遊びの先に科学技術の発展もあるのでしょうね。ノーベル賞受賞の本庶佑教授も基礎研究の積み重ねが大事と言っていましたし(こじつけ)。
新しい世界
自由研究のテーマ探しに博物館へ向かうも今日は休館日。途方に暮れて歩き回っている内、目に入って来たのは「新物館」の文字。見るからにあやしい建物だが宿題の為にと入口へ。
"新しい"とはなんでしょう?刻が未来に進むと誰が決めたのか?
この100年で世界が魔法のように変わったのであれば、次の100年も同様に様変わりしてもおかしくはありません。
そうなった時に人間は、私は、世界の変化を受け入れて適応できるのか。柔軟な者が好々爺、頑なな者が老害と言われる訳で、どうせなら前者でありたい。
などという堅っ苦しい話とは無縁な、ポップで愉快メルヘンな本編をお楽しみください。
イノセントワールド
修学旅行でクラスとはぐれてしまった少女は先回りする為に京都タワーへ向かうことに。案内に従って京都タワーを目指すも、視界にチラつくのは正反対の方角にそびえるもう一つのタワー。それは第二京都タワーであった。
んー、これは画用紙に鉛筆で描いたのでしょうか?まるっきりタッチが変わって驚きました。
私自身京都へは何度か旅行に行ったのですが、当然ながら街並み自体はしっかりくっきりしているんですよね。それでも写真無しに思い出そうとすると輪郭はぼやける、修学旅行で行ったきりとなると尚更に。
そんな朧げな雰囲気を醸し出し?
締めくくりの最後のセリフはこの話全体に対しての一言ともとれます、いとおかし。
二〇一二年四月一七日の夢
おすすめの名所として紹介されている堤防にやってきた。何やらいろいろなものが見られるお得な場所だという。
わーでかいでかい
海辺の堤防で色々な物を見ています。とはいえ水中カメラなどを使うわけではないので、視認できるものは水より上に現れるものばかり。
数えてみると、確認できるのは自然物が2に対しての人工物が4。「水中に神秘が広がっている」と何度言われても見える範囲は人間の世界に侵食されていて、"自然を支配した"と考えてしまうのも無理はないな、と。
でも一番感動したのはホエールウォッチングなので、人間もまた自然の一部と言ったところでしょうか。
足摺り水族館
中編。写真と文章、イラストがカラーでずらり。というか、旅の日記ですねこれ。
一般的な商業誌ではこんなことやらせてもらえないだろうな、と。panpanya先生の人となりを最も感じられる一幕です。
この辺りは紙質も変更されており、さらに言えば表紙もボール紙のような素材でできています。なんともこだわりの強い単行本ですこと。
冥途
妹がフランスへ引っ越したので手伝いに来た。が、すぐに手持ち無沙汰になってしまったので街を散策することに。フランスの街並みは日本と全く異なるが、これがここでの普通なのだろう。カルチャーショックというやつか、今まで信じてきた"普通"がわからなくなる。
と、そんな事を考えながら歩いていたら「死者の町」へ足を踏み入れていた。
見知らぬ街で面食らっているのだから、さらに見知らぬ世界へ入ってしまったとしても何もおかしくない。
人生は映画やドラマのように明確な場面転換があるわけではなく、今という普通が少しずつ変わっていくものである。そして先述の『新しい世界』のように、気がつくとそこは見違えたような未来になっている。
そこで大事なのは、ブレない自分の芯を持っているということ。周囲が一変しても自信が変わってしまっても、一足飛びで戻れるようなチェックポイントを自分の内に築いていきたい。
もうこの辺りまで読み進めると、panpanya先生の"何が起きてもおかしいと思えない"世界観に慣れている自分がいます。
スプートニク
校長先生の長い話にウンザリしていると裏山に何かが墜落した。つまらない話をただただ聞いている暇はない!
こちらも4ページの短編。panpanya先生の作品は「体が人間、頭が動物や機械」というキャラクターが多いですが、その先駆け的な話のような。あとロシア語も登場頻度高し。
無題
真っ暗な風景を少年が歩いていく。周りには巨大な動物のようなものが浮いている。彼は不可思議な空間を黙々と歩いていく。
本書の中では一番難解な作品です。セリフは一切なく世界観も特殊、起点も終点もない。以下、申し訳程度に考察。
自動車の無い道の歩道橋、車輌の無い曲がりくねった線路、辿り着いた廃墟。これらは明確な意義の無い日常をなんとなく進んでしまう虚無感、気付いた時には何者でも無い場所へ辿り着いてしまう惰性を示唆している。
崩れた民家の中で見つけた釣竿を持って住宅地を抜ける。これは実生活の破綻と一縷の希望として見出した生き抜く為の手段のメタファーではないか。
誰もいない堤防で釣りを始める。餌がないので身近にいた動物の身体の一部を千切って針に括り付ける。
この動物とは、つまりは他人のことなのではないか。本当の意味では言葉が通じず、姿形も異なり、バラバラに生きている。同じホモサピエンスという以外は最早別の生き物と言っても過言ではない。
でも最後、少年は他の動物に頼ることで糧を得ようとする。これでいいのだ。
と考えましたが、如何様にもとれる作品ですので解釈は様々ですね。心理テストというか精神分析というか、その類のような。
マシン時代の動物たち
小銭を入れるも自動販売機からは「売り切れです」の声が。仕方なしに返却レバーを捻るも小銭が出てこない。
「一度もらったお金はもう僕のものだ」
夏休みの自由研究のテーマは「喋る自動販売機について」に決めた。
今の楽園掲載作品に近いテイストの作品。身近に当たり前にある自動販売機をテーマにしつつ、斬新な視点で物語へと昇華させる。だから風変わりなシナリオでもどこか馴染みやすい、そんな魅力があります。
まぁ、あとは、動物自体が可愛いですよね。そして唐突に表れる実写はめ込みにクスっとする。この単行本で一番好きな話です。
足摺り水族館
後編。漫画とテキストと写真の集大成。
君の魚
地元の川で捕まえた魚だけを展示する「足摺り水族館」は、近年の海洋汚染による展示種の減少に悩んでいた。
そこで多摩川を上流へ遡ることで新しい展示品を探すことにした。
こちらも比較的わかりやすい話ですが、妙にリアリティのある描写が特徴的です。
水質や生態系への注釈が細かくて説得力があります。このヘンテコな世界でしっかりとした考証をされてしまうと、何を信じればいいのかわからなくなってしまいますが。
ちなみにこのレオナルド、後々に他の作品でも幾度か出てきます。無表情で淡々と喋るのがたまらなくツボに入ります。
エンディングテーマ
まさかこの世界に、フクロウを自転車にする人間がいるとは。
終わりに
以上で第1作『足摺り水族館』の紹介を終わります。後に出版された楽園掲載短編集も珠玉の作品ばかりですが、この足摺り水族館は突出して個性が溢れています。
過去作品の選集という事もありますが、色々な方向性のシナリオがごった煮になっているのでどれか一つはあなたのツボに入ってくれるのではないかと期待しています。
是非ともpanpanya作品をお手にとって頂き、個性的でマニアックな世界観を堪能していただきたく。
それでは次回も、なにとぞよしなに